潮風の記憶

今はリガレア帝国領となった小さな港町。
路地裏からは、魚を焼く香ばしい匂いや、網を繕う漁師たちの話し声が微かに聞こえてくる。

石畳の道は、長年の人々の往来と潮風に研磨され、つるりと光っていた。
遠くには、かすかに霧に霞む灯台の姿。

船乗りや漁師、商人が行き交うこの街には、自治体公認の売春宿が立ち並んでいた。
貧しい家の生まれであるオーゾレスがそのひとつに売られたのは、世が獣魔によって大混乱を起こす数年前だった。

「どうしてこんな目に遭うんだろう、そんな風に思うことがあるよ。でも、あたしは負けない」
オーゾレスが生きる希望を失わなくて済んだのは、売春宿で生きる術を教えてくれたシルフィアの存在が大きい。
割り当てられた狭い部屋の中で、彼女は稼いだ金の保管方法や性の知識をオーゾレスに伝えた。

「力じゃ男にかなわない。だから知識を身につけるんだ」
シルフィアの美しい横顔が夕日に照らされてオレンジ色に輝いていた。
彼女は自分と同じ境遇にあったオーゾレスのことを、妹のように可愛がった。
貧困と暴力が支配する地獄のような環境において、唯一の救済だったのだ。

荒々しい男たちの相手をさせられる日々。
軋む身体。
擦り切れていく心。
その中でオーゾレスが出会ったのは、商人の客が忘れていった一冊の本だった。

描かれていたのは、かつて神々がこの地を統治していたころの物語。
人々は自由に生きることを謳歌し、神の愛に抱かれながら平和に暮らしていた――と。
オーゾレスにとってにわかには信じれない世界だった。

物心がついたころから、世界は欲望と悪意に満ちていた。
それは、神がこの世界を見放したから――オーゾレスはそう結論付けた。

「そうか。世界の方が間違っていたのね」
ずっと心に渦巻いていた疑問の答えが見つかった。

貧民に生まれたからといって尊厳を商品化しなくてはならないなんて、おかしい。
それなのに、国も街も大人たちも……誰も助けてくれない。
人には人を支配する能力などないのだ。

ある船乗りから北の海に眠る神獣の話を聞いたオーゾレスは胸をときめかせた。
すべての神が世界を去ったわけではなかったのだ。
いつか神獣が蘇って、この誤った世界を滅ぼしてくれれば――
古い毛布にくるまり、月明かりの中でオーゾレスは何度も願うようになった。

「金がたまったらあたしは自分を買い上げる。足抜けするんだ。あんたはどうするつもり?」
「私は……」
言葉が続かなかった。

この地獄から逃れられる日が来るなど、オーゾレスには想像できなかった。
シルフィアはまっすぐにオーゾレスの目を見つめている。
何も迷いのない眼差しだった。
自分の運命は自分で変えられる――そう信じているのだ。

彼女が希望を保てた理由のひとつに、ある支援者の存在があった。
シルフィアを気に入っている客のひとりで、やけに金払いがいい。
フィネガンというその商人は、違法な宝石の採掘によって財を成したと囁かれている。

こんな男がシルフィアをいいように扱っているのは我慢できなかったが、かといってオーゾレスにはどうすることもできない。
間違った世界を正す方法はないのか。
無力感に駆られ、次第に暗い気持ちがオーゾレスの心を塗りつぶしていった。

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