黒々とした雲が空を覆う。
神が去ったあとの荒廃した大地が広がっていた。
森は枯れ果て、川は増水するたびに怒れるように奔流を起こす。
人々は恐怖に支配され、悪しき風習が横行していた。
「俺だってこんなことしたくねえ。だけど川を鎮めるには、生贄が必要なんだよ!」
一人の男が小さな赤子を抱え、荒涼とした断崖の縁へと歩み寄る。
その足元にすがりつく一人の女性。
面差しから、赤子の母親であることは明らかだった。
彼女は声にならない声で何度も抗い、足元に泣き崩れる。
「やめてください……お願いです!その子はわたしの――」
だが男の言葉は、かたくなだった。
「悪霊を鎮めるにはこの子を捧げるしかねえ。村の決まりだ」
夕陽に染まる崖の下からは、ごうごうと吹き上げる風の音が聞こえる。
息苦しいほどの沈黙が周囲を包む。
母親の悲鳴をかき消すように、男は地面にひざをつき赤子を高々と持ち上げる。
「荒れ狂う川よ、この子を捧げます。どうか鎮まってくだせえ!」
その声とともに、男は赤子を空へ放った。
時間が止まったかのような一瞬。
母親は崖っぷちまで駆け寄り、絶叫する。
耳を裂くほどの悲嘆が、空気を震わせた。
小さな泣き声は風に乗って遠ざかり、ほどなく消えてしまった。
男はその光景を見届けると、深い安堵とも絶望ともつかぬ表情を浮かべて、たたずんでいた。
――しかし。
ごうごうという風の音とは別に、どこか凛とした気配が走る。
崖の下に広がる闇から、ゆったりとした白い衣をまとった者が現れた。
その姿は淡く光を帯びている。
「ラージェマ様…!」
母親はその名を聞いたことがあった。神が残した最後の御使いだと、古い伝承で語り継がれている存在。
かの者は、しっかりと赤子を抱いていた。
まるで雲の中を歩むかのように、ラージェマは崖の下から静かに舞い戻り、母親の前に降り立った。
優しいまなざしで母親を見つめるラージェマは、赤子をそっと差し出す。
いまだ息が荒いが、赤子は小さな手で母の腕にしがみつき、弱々しく泣き声を上げた。
母親は我が子をその胸に抱きしめると、言葉にならぬ感謝を何度も繰り返す。
「ありがとう、ありがとうございます…!ラージェマ様…!」
母親は泣き崩れながら、ラージェマの足元にすがりつく。
しかしラージェマは静かに母親の肩を押し起こし、その背に手を添えた。
母親は何度も頭を下げ、まだ息の整わぬ赤子を抱いたまま、夜闇の奥へと去っていった。
「こりゃすげえ…本物の御使い様だ!お願いです、川を鎮めて俺たちの村を救って――」
言い終える前に、男は氷で作られた彫像となった。
ラージェマはそっとまぶたを閉じる。
神のいない世界にあっても、信じる心が断たれたわけではない。
ただし、人々は不安に駆られ、妄想で作り出した悪しき風習に縛られていた。
狭い心、浅い知恵。
人間たちの愚かさは見ているだけで息が詰まる。
神が去った理由も、今なら――
ラージェマの白い衣は微かに揺らめき、光とともに闇へと溶けていった。
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コメント
人間たちの愚かさは見ているだけで息が詰まると思いながらもその人間の赤ん坊を助けていることからラージェマは人間に対して失望しきっているわけではない?
そうなんです!
特に赤ちゃんはまだ何も罪を負ってないですから。
人間に可能性を見出したいけど、ウンザリするシーンが多すぎるので葛藤している感じです。
ラージェマの知識は初めから自ずと備わっていたのか、イオクス直々に教わったものか。
多くを識る最高の師から知恵を授かっているとしたら、何の教えも与えず人間を愚かと断ずるラージェマの考えもまた狭く浅い。
ラージェマが神気を失った場合、不安に駆られはしないのか。
ラージェマの知識はこの世界に遣わされて、自分で得ていったものですね。
この時代の人間は特に非科学的で、ラージェマにはとても愚かに見えます。
次の話もそのあたりがテーマになっております。
人々は恐怖に支配され、不安に駆られ、妄想で作り出した悪しき風習に縛られていた。<
「ブリッツに聖女の法力が合わされば、御使いや神にも届きうる。」
不安に駆られて妄想ともいえる発想で一方的な武力行使に乗り出すラージェマの行動と表裏一体。
これは実はあながち妄想でもなくて、自分が苦労して封印した獣魔を聖女が倒したことに危機感を持っています。
他にもマナグロアがやられてますが、三大獣魔は神の化身でもあるので、場合によっては神にも届くかもしれいない、と危惧しております。
ずーっと取るに足らない生き物だった人間なのですが、天啓によって法力を使えるようになり、自分たちにも対抗できるようになったことを問題視している感じですね!
科学的な知識がないとこういう呪術的な思考に陥りがち。今の倫理観じゃ想像できないけど集団の不安を解消させるためには必要だったらしい。あとは意味はわからないけど伝統だから・・・という理由もありそう。
う~ん、書いておいてなんですが理解できないというか…
犠牲と河の氾濫が収まることに繋がりを感じられないですね。
しかし世界的にあったことなので、人間の心理としてあるものなのかも。
不安の解消ももちろんですが、なんとなく伝統で…というのは想像できます!残念ながら!
ラージェマとしては本当は人を信じたい・救いたいってことです?それなのにどうしようもない輩がはびこっていて信じきれない。自分のことばかりで倫理がない。そこに宗教が登場するということでしょうか。でもエザリス教みたいに腐敗する組織も出てきて。これではますますうんざりすることでしょうなあ。
本当は神が言うように見どころがある生き物だと思いたいけど…というところでしょうか。
この後、それぞれの神を崇める宗教が出来上がります。
アズトラ教はまともなところもあるのですが、一部の人間が権力を握ってそれが長い時間を経ると組織が腐敗して…という感じですね。