血の覚醒

天啓を受けた2年後。
リンカージェのうちにある獣魔の血は覚醒する。

夜半、リンカージェは自室の窓辺で目を覚ました。
月は雲に隠れ、部屋には灯りもなかった。
それなのに、彼女にはすべてが見えていた。

壁際の水差しに残った水の揺れ。
廊下の向こうで眠る者たちの呼吸。
城の外を吹く風が石壁に触れる位置まで、皮膚の内側へ流れ込んでくる。

感応力が広がりすぎていた。

広がる、というより、世界のほうが無理やり彼女の中へ押し入ってくるようだった。
人の気配。
金属の匂い。
石の冷たさ。
遠くの厩舎にいる馬の怯え。
そのさらに外、夜の森を走る小動物の心音。

すべてが分かる。
分かりすぎる。

リンカージェは耳を塞いだ。
だが音ではなかった。
目を閉じた。
だが視覚でもなかった。

神から与えられたはずの力が、彼女自身の形を押し潰そうとしていた。

次の瞬間、机の上のペンが浮いた。
一本、二本、三本。
床に置かれた椅子が軋み、窓枠が震え、水差しの水が細い刃のように空中へ伸びる。

リンカージェは息を呑んだ。
止めようとした。
だが念動力は、彼女の意志よりも先に動いた。

部屋中の金具が一斉に鳴り、扉の蝶番が悲鳴を上げる。
壁に掛けられていた短剣が鞘から抜け、月のない闇に青白い線を引いた。

「やめて」

自分の声が、自分のものではないように聞こえた。

胸が熱い。
血管の奥で何かが爪を立てている。
それは怒りではなかった。
恐怖でもない。
もっと原始的で、もっと単純な命令だった。

――壊せ。
――引き裂け。

リンカージェは床に膝をついた。
神気を巡らせ、呼吸を整え、教えられた通りに力を絞ろうとする。
けれど、体内の熱は増した。
聖なる力が獣の血を鎮めるのではない。
むしろ、神気に触れた血が、それを餌にして燃え上がっていく。

青白い光が皮膚の上に浮かんだ。
その下から、暗い赤の脈動が透けた。

リンカージェは初めて理解した。

天啓は、自分の中の獣を消してくれたのではない。
神の光は、獣の血を封じたのではないのだ。
二つの力は同じ身体の中で触れ合い、互いを否定するどころか、互いを強めていた。

扉が開いた。

ヴェイダル博士が立っていた。
白衣の裾を乱し、片手には小さな灯りを持っている。
その目に驚きはあった。
だが恐怖はなかった。

「リンカージェ」

父の声が届いた瞬間、浮かんでいた短剣が彼へ向いた。

リンカージェは血の気が引いた。
止めなければならない。
そう思った。
だが身体の奥の何かは、彼を敵とも味方とも判断していなかった。
動くもの。
近づくもの。
自分の領域へ踏み込んだもの。

それだけで、攻撃する理由になる。

「来ないで」

絞り出した声は震えていた。

ヴェイダルは足を止めた。
短剣が不気味に浮かび上がっているにもかかわらず、彼は灯りを下ろし、ゆっくりと膝をついた。


血の覚醒

「大丈夫だ。今は、止めようとしすぎなくていい」

「止められないの」

「知っている」

その言葉が、何よりも恐ろしかった。

知っている。
父は知っていたのだ。
自分の中にあるものを。
天啓を受けた日から、あるいは生まれた時から。

「わたしは、聖女なの?」

リンカージェは問いかけた。
短剣はまだ震えている。
水差しの水は空中で細い蛇のようにうねり、工具は祈りの輪のように回っている。

「それとも」

続きは言葉にならなかった。

――獣魔。

その名を口にした瞬間、自分がそちらへ落ちてしまう気がした。

ヴェイダルは答えなかった。
答えられなかったのかもしれない。
ただ、研究者の目ではなく、父の目でリンカージェを見ていた。

その沈黙の間にも、彼女の力は増していく。

念動力は重く、強く、荒々しくなった。
感応力は人の心の奥にある怯えや敵意まで拾い上げた。
訓練を重ねた聖女が何年もかけて届く領域へ、リンカージェは一夜で踏み込んでしまった。

規格外の才能。
そう呼べば聞こえはよかった。

だがその実態は、祝福と禁忌が同じ血管を流れることだった。

法力を使い続ければ、力は際限なく増す。
同時に、自制は削れていく。
敵と味方の境目が薄れ、守るべきものさえ、ただの障害物に見えてしまう。

リンカージェは震える手で、自分の胸を押さえた。
熱い。
熱いのに、心の底は氷のように冷えていた。

「お父様」

ようやく短剣が床に落ちた。
水が弾け、部屋に静寂が戻る。

だが静寂の奥で、彼女の血はまだ鳴っていた。

「わたしの中にいるこれは、いつか誰かを殺す?」

ヴェイダルは目を伏せた。

「殺させないために、方法を探す」

それは慰めではなかった。
約束でもなかった。
ただ、研究者として、父として、彼が手放せない言葉だった。

リンカージェはうなずけなかった。

自分の力が恐ろしい。
神に選ばれたはずの身体が、獣の衝動で満ちていることが恐ろしかった。
それでも、その力を捨てたいとは思えなかった。

この力があれば、世界は変えられる。
誰にも奪われず、誰にも裁かれず、自分自身が法となる未来さえ、掴めてしまう。

その考えが浮かんだことに、リンカージェはさらに深く怯えた。

聖女の光。
獣魔の血。

二つは彼女の中で、もう分けられないところまで絡み合っていた。

この夜を境に、リンカージェはただの聖女ではなくなった。

世界がまだその名を知らないだけで、聖魔の芽は確かに息を始めていた。

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紺碧の巨龍
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コメント

  1. 匿名 より:

    獣魔の細胞で体を治したママから生まれたから受け継いだってこと?

  2. 聖剣の目隠し乙女 より:

    獣魔細胞を用いた人体実験が秘かに行われている様ですが、獣魔細胞が適合した人間から輸血すると比較的少ない拒絶反応で獣魔因子を移植できるかもしれません。
    血液型の概念が発見される1900年まで、「輸血は時に回復し、何故か時々死ぬ」ギャンブル性が高いものでした。

    • akima より:

      おお、なるほど。
      ゼタリリアよりもリンカージェの方が後遺症が少なかったりします。
      血液型がわからない時代の輸血、恐ろしいですね…