「あっ、またやられた~」
聖女ムーゼルは竿を引き上げると、糸の先にぶらさがった釣り針をながめた。
きれいに餌だけが無くなっている。
しかし、釣果は問題ではなかった。
田舎でのんびり育った彼女にとって、釣りは大切な娯楽のひとつなのだ。
まもなく戦地となる、ゲイルード海上要塞の屋上。
陽光が水面にきらめき、静かな海にはまだ平和な時間が流れていた。
「よう、釣れるか?」
背後からふいに聞こえてきた、低い声の主をムーゼルは知っていた。
エザリス王国騎士団で数々の武功をあげた戦士、リカード。
聖女の間でも噂になっていたほどだ。
屋上の端に座るムーゼルの隣まで近づくと、リカードは海面を見つめた。
「あんたが強いのは知ってるけど、さすがに今回は厳しいんじゃないの~?相手は獣魔だよ」
「俺だってやりたかねえんだが、成り行きでな。それに、今ならお前らの手助けぐらいはできる」
リカードは握りしめた自らの拳に視線を移す。
銀色のバイザーの隙間から、赤い光が漏れていた。
その光は獣魔と戦い続ける聖女なら見慣れたものだった。
「ふ~ん。ま、いろいろあるよね~」
ムーゼルは彼が獣魔の力を取り込んだ、と推測したが、詮索はしなかった。
リカードだけでなく、聖女たちにもそれぞれ複雑な事情を抱えているものは多い。
「お前は呑気に釣りなんかしていていいのか?他の聖女は迎撃準備に忙しそうだぜ」
「まあね~。のんびりやろうよ。どうせお給金変わらンないし」
「ははっ!そりゃあそうだな」
リカードは腕組をしながら空に向かって微笑む。
しかし、その笑顔にほんの少しだけ陰りが見えた。
風がやわらかく、潮の香りを運んでくる。
「悩みごと?らしくないねぇ」
「あのなぁ、俺だって悩むことはあるぞ」
「歴戦の勇士、って聞いてたからさ。考えるより動くタイプかな~、と思ってた」
「ンなもん、尾ひれのついた話だ。真に受けんなよ。――ただ、な」
リカードはムーゼルの隣にどっかりと座ると、あぐらを組んで頬杖をついた。
「家族のことを思うとな。こんな力を手に入れてまで生き延びた方がよかったのか――わからなくなる時がある」
「生き延びなきゃ家族にも会えないじゃない。バカだねえ」
「そんな単純な話じゃ――」
「単純な話だよ~。ここであんたが獣魔を退けることが、家族の安全にもつながってるんだから。そのための力であり、命でしょ?」
「…そうだな」
リカードは観念したように小さくため息をつく。
若くとも、死線をくぐり抜けた聖女の言葉には重みがあった。
「考えすぎだね~、リカード。これ使っていいから、頭を空っぽにして釣ってみなよ」
そう言ってムーゼルは、竿をリカードに手渡すとふわりと空中に浮きあがり、要塞内に繋がる扉の奥に消えていった。
「考えすぎ、か。そうかもな」
リカードは言われるままに釣り糸を垂らす。
波に揺れる海面をぼんやりと見つめた。
体内にある獣魔の因子のことが頭をよぎるたびに、ふと心が重くなる。
しかし、波はゆるやかに寄せては返し、どこか穏やかなリズムを刻んでいた。
そのリズムに身を任せるうち、肩の力が自然と抜けていく。
海の深い青と静かな風が、彼の心のざわめきを少しずつ洗い流していくようだった。
コメント
自分よりずっと年下の女の子から助言をうけて素直に取り入れるリカードがいいですねー
なかなか難しいもんですよ、おっさんになると
我以外皆師也、とはいかないでしょうか。
リカードは割と柔軟な考え方なので、いいなと思ったら素直に取り入れるタイプですね。
獣魔の細胞を移植した兵士は次第に浸食を受け獣魔化したりするのでしょうか?
歴戦、最強の勇士と呼ばれるリカードならオーゾレスから最高のメンテナンスを受け、問題は起きにくいと思われるのですが。
ご明察の通りで何も付け加えることがない笑
オーゾレスのメンテを受けないといけないので、リカードも勝手にどっか行ったりはできないんですね。