数日が過ぎた。
家の中は、変わらず静かだった。
ヴェイダルは研究室にこもる時間が増えた。
リンカージェも、普段通りを装っていた。
けれど、何かが変わってしまった気がしていた。
朝、母の義肢を見る。
歩く時の、ほんのわずかな遅れ。
夜、眠れずに窓辺に座る姿。
今までは当たり前だったものが、急に違う意味を持ち始めていた。
母は壊れたのだ――国のために。
誰かに選ばれて。
そして、誰にも守られなかった。
それどころか、今は脅されている身だ。
仮に宝剣を返したとして、真実を知る者たちを王国が放っておくだろうか。
疑念だけが、胸の奥へ沈んでいく。
その日。
ヴェイダルは村の診療へ出ていた。
ゼタリリアは眠っている。
リンカージェは、研究室の前で立ち止まった。
入ったことはある。
ただし、ひとりで入るのは初めてだった。
扉を開ける。
紙と薬品の匂い。
窓際には義肢の試作品が並び、机の上には描きかけの設計図が散らばっている。

見覚えのある、父の字だった。
無駄がなく、読みやすい。
棚には古い記録が積まれていた。
リンカージェは何となく、一冊を手に取る。
義肢の記録、訓練経過、そして母の名前。
ページをめくる。
――義肢適応訓練 三日目。
痛みを訴えず。
無理をしている可能性あり。
睡眠不足。
――夜間、幻肢痛あり。
本人は気丈。
だが長期化の恐れ。
――本日、自力で杯を持つ。
少し笑った。
リンカージェは手を止めた。
父による、静かな記録。
その行間に、どれだけ母を見ていたかが残っていた。
胸が少し痛くなる。
そして、棚の奥に分厚い記録を見つけた。
表紙には、ただ短く書かれている。
――獣魔。
リンカージェは、ゆっくりページを開いた。
怪物の図、傷、再生していく様子。
黒い血。
途中で、手が止まる。
はさまれていた紙。
父の走り書きだった。
――赤髪の聖女の証言。
獣魔を従わせた記録あり。
詳細な手順について聞き取り済。
再現性不明。
信憑性は低い。
だが、事実ならば極めて重要。
短い文章が続く。
簡潔だった。
――恐怖を見せないこと。
――力を示すこと。
そして、呼びかける言葉と空中に描く印。
それだけだった。
ただ、やり方だけが残されている。
リンカージェは何度も読み返した。
獣魔を従わせるなんて、そんなことが本当にできるのだろうか。
調査した父本人ですら、信じ切れていなかった。
もし、本当なら――
胸が、大きく鳴った。
熱い。
身体の奥がざわつく。
もし、本当にそんなことができるなら。
母のような人を、もう増やさずに済むかもしれない。
誰かに奪われる側ではなくなれるかもしれない。
その時だった。
背後で、扉が鳴る。
「ずいぶん難しいものを見つけたな」
リンカージェが振り返る。
ヴェイダルだった。
父は怒らなかった。
少し疲れた顔で、扉に寄りかかっている。
リンカージェは本を閉じた。
少し迷ってから、恐る恐る聞く。
「……本当なの?」
ヴェイダルは少し考えた。
「分からない」
正直な答えだった。
「だから調べていたんだ」
机へ歩き、記録へ視線を落とす。
「私も半信半疑だ」
少しの沈黙。
「でも」
声が少し低くなる。
「試してはいけない」
リンカージェの肩がわずかに揺れる。
ヴェイダルは真っ直ぐ娘を見る。
「命を落とすことになる」
研究者として、父としての警告だった。
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