海風の約束

海風の匂いが、少しだけ変わっていた。

季節が移り始めている。

診療所の窓辺では、ゼタリリアが義肢の指先をゆっくり動かしていた。

杯を持ち、静かに置く。

もう落とすことはない。

歩く速度も、少しだけ速くなった。

それでも疲れる日はある。

眠れない夜もある。

義肢を外した身体を見るたび、自分がもう元には戻らないことを思い出す。

昼前、診療所に戻ってきたヴェイダルが持つのは、一通の封書だった。

白い封に、見覚えのある紋章。

ヴェイダルの表情が少しだけ曇る。

嫌な予感がした。

ゼタリリアも気づいたらしい。

「……王都から、ですか」

ヴェイダルは少し迷った。

だが、隠さなかった。

封を開く。

短い文だった。

あまりにも短かった。


聖女ゼタリリア

速やかに帰還せよ。

宝剣も併せて回収する。

任務復帰の準備を進めること。

――ザクネル


ゼタリリアはしばらく黙っていた。

静かだった。

驚きも、怒りもない。

ただ、少しだけ指先が止まっていた。

ヴェイダルが言う。

「聖女、というのは――」

少し言葉を探す。

「必ず戦わないといけないんですか」

ゼタリリアは小さくうなずいた。

「神に選ばれた者ですから」

静かな声だった。

「断れません」

それは規則というより。

祈りに近い響きだった。

長い時間をかけて、自分の中へ染み込んだ言葉なのだろう。

ヴェイダルは手紙を見下ろす。

四肢を失った少女。

夜ごと痛みに耐え、ようやく歩けるようになった。

それなのに戻れ、と言う。

また戦え、と。

まるで、壊れた武器を修理に出したかのように。

「……帰らないと」

ゼタリリアがぽつりと言った。

ヴェイダルは顔を上げる。

「帰りたいんですか」

少しの沈黙。

窓の外で、波の音がする。

ゼタリリアは長い時間、何も言わなかった。

そして、ほんの小さな声が落ちた。

「……帰りたく、ありません」

初めてだった。

願いの形をした言葉。

ヴェイダルはしばらく黙っていた。

やがて、静かに言う。

「なら、帰らなくていい」

ゼタリリアが顔を上げる。

「少なくとも、私は止めません」

少しの沈黙。

海風が、紙を揺らした。

「どうして、そこまで」

ゼタリリアが聞く。

ヴェイダルは少し考える。

「それは……研究者なので」

いつもの調子だった。

興味があります。

そう言いそうな顔だった。

少し間があった。

そして、ヴェイダルは静かに続けた。

「……あなたに、死んでほしくないんです」

その声は小さかった。

けれど、嘘ではなかった。

ゼタリリアは何も言わなかった。

ただ、少しだけ視線を落とした。

窓の外では、波が静かに揺れている。

帰る場所――それがどこなのか。

まだ、よく分からなかった。

けれど、少なくとも。

ここはもう、ただの療養先ではなかった。

季節が巡った。

海風は変わらず、村を吹き抜けた。

ゼタリリアは以前のように歩けるようになった。

村人と話すようになった。

ヴェイダルは診療所を離れなくなった。

いつからだったのか。

誰も覚えていない。

ただ、気づけばふたりは同じ食卓に座るようになっていた。

そして――
季節が、いくつか巡った頃。

ひとりの娘が生まれた。

リンカージェと名付けられた少女は、母によく似た静かな目をしていた。

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聖魔の天啓
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